無欲の言葉2015.01.12
すくなくともわたしは、わかりあう至福をあきらめきれない。わかりつくせないと思い知るのは怖い。そして、寂しい。わたしたちは、言葉によってわかりあえる可能性を与えられている。 ゆえに、言葉が目のまえにあらわれた途端、わかりたい欲望とわからなければならない焦燥感にとらわれてしまうのだ。
尾崎放哉の自由律俳句は、言葉を、読み解かれる運命から無縁にする。そして、読む者は、欲も焦りもない澄み渡った気持ちになる。
放哉は、「咳をしても一人」生きた。明治から大正にかけて、病とともに流転の人生を歩んだ。その人生からか、孤独の俳人とも言われている。だが、彼の俳句が描き出す世界は、孤独を体現してはいない。
なんと丸い月が出たよ窓
月の丸さに「なんと」と漏らす感覚はわたし(放哉)にしかないもので、あなた(鑑賞者)にはつまらない嘆息かもしれない。 でも、「月」が「丸い」こと、それは唯一、言葉によらず真実なのだ。「丸い」という言葉をあなたが持っていなかったとしても、わたしたちは同じものを見ている。読んだ瞬間に経験が共にされる、それだけでいいじゃないかと。
せめてわかりあえたつもりになれるだけで、万々歳ともいえるようなわたしたちの伝達。しかし、放哉の句は、限りの見えた伝達機能をいさぎよく切り捨てる。 時間も空間も未決定の、わたしのものでも、あなたのものでもない言葉によって、読む主体を溶かしてしまう。
あけがたとろりとした時の夢であったよ
放哉のある朝の一瞬でもありながら、わたしたちはわたしたちのかつて見た夢を思い出す
また、放哉の句は、世界を精密に引用している。だから、読む者にとっての世界とすぐに接続できる。
かぎりなく蟻が出て来る穴の音なく
放哉は、晩年を過ごした小豆島の住まいの庭で、蟻の巣をぼんやり見ていたのかもしれない。それにたいして、わたしは音も感じないほどに暑い夏の日を思い浮かべる。引用をたどれば、人それぞれの記憶が呼び起こされるのだ。
放哉は、言葉によってあらゆる現実を対象化しつづけたが、自らの言葉の中に自身を登場させることはなかった。
考へ事して橋渡りきる
入れものがない両手で受ける
視点は確かにある。視点をみいだした存在として放哉を感じられる。けれど、彼自身は浮かび上がってこない。読む者は、放哉という俳人の存在に思いを向けるのではなく、彼の視点を通して対象化された現実を、言葉の中で経験することになる。
放哉は孤独だったかもしれない。だが、彼の言葉は、わたしたちがどれだけ深くわかりあえたとしても、その果てに存在する限りを忘れさせる。また、それぞれが別々の主体であるための隔たりから解放する。 そして、このほんとうに短い言葉のもとにおいて、わたしたちはひとしい記憶をともにしていると感じ、ひととき安堵するのだった。