なにかを「言葉にしたい」と強く思うとき、「声にしたい」というわけでもなく、「文字にしたい」というわけでもない。「言葉にしたい」のだ。 このような自分の感覚に従えば、「声」や「文字」とはべつに、「言葉」という存在がかくじつにあるはずなのだが、まさに、この存在を言葉にすることができない。
文字でもなく、声でもなく、言葉そのものを捉えることはできるだろうか。美術作品として造形をもちいることで、言葉をみることができるのではないか。この問いを動機に、制作をつづけてきた。
古今東西、詩にはさまざまな規範が存在してきた。字数の制限、韻律や型。詩として成立するための絶対条件であるものから技法としてはじまり定型となった概念まで、枚挙にいとまがない。
人は、みずからの言語文法によって思惟や認識を支配されているが、言語に規範をあたえることで、むしろ自由な表現の媒体として言葉を扱うことができたのだ。 つまり、人が言葉を支配できる唯一の瞬間は、言葉を「表現」とした瞬間であり、そのために、言語の生成方法(枠組み)を創造してきたといえる。
そして、人が与えた枠組みによって生み出された言葉は、逆説的ではあるが、人の日常的な恣意だけでは生みだせない意味や情緒を孕むことがあり、人の言語感覚を刺激する鑑賞の対象となってきたのだ。
わたしは作品において、言葉の生成する場を創造したい。