波の上で2015.07.23
ほとんど、うなり声である。
思想家、吉本隆明は2012年に亡くなった。『吉本隆明の183講演』では、彼の音声を今でも聴くことができる。1960年代から2008年までの183回、合計21,746分におよぶ講演のデジタルアーカイブだ。ほぼ日刊イトイ新聞によって、無料、無期限で公開されている。「名講演」と呼ばれ、論文を書くほどの労力を注ぐ回もあったという。
「人類は、自然な呼吸を妨げるようにして言語を獲得した」。
『言葉以前の心について』と題された1992年の講演のなかで、吉本が言う。
「人間の、つまり、言葉っていうものは、人間の言語ですけれども、人間の言葉っていうものは、あの、人間の自然な行為を、極端に、その、なんと言いますか、障害する、妨害することなしには、人間の言葉は発生しなかったっていうことが言えるっていうふうに思います」。
絞り出される。突発する。まさに、呼吸を阻まれているかのような語りである。「声が震える」という言い回しがあるが、そんなものではない。声は波となって、聴く者が酔ってしまうほどの揺れになる。ましてや、揺れが表すのは巨大な渦をまく思想。もはや、苦痛にも感じる。
声帯から鼓膜へ。他人の器官の揺れが、自分の器官を揺らす。荒波のような声を聴く苦痛は、がしがしと険しい山を登るように難解な著作を読み進める苦労とはわけが違う。自分ではない他人の生命の揺れに、否が応でも響き合わなければ言葉を受け取ることができないからだ。
「わたしたちは空気を呼吸して生きている。そしてあるばあいは空気を呼吸していることをまったく意識さえしていない。おなじようにわたしたちは言葉をしゃべり、書き、聴き、読んで生きている。しかし、あるばあいには言葉をまったく意識さえしていないのだ。これはとても健康な状態だというべきだ」。
吉本の著作『言語にとって美とはなにか』の一節である。「言葉を言葉として取り出して考察する」行為は「一種の不毛な病」だと続く。吉本の揺れに身を任せていると、そのような病に魅せられていく。
然ながら人はつねに、自分の声について、発する側になると同時に聴く側にもなる。言葉を発することで、自らをひき裂く。そして、葛藤が生まれる。自分が発した言葉は、自分の考えをあらわすのに本当にふさわしかったのだろうか。吉本のうなるような「声」を聴いていると、彼自身、耳を澄ませて自らの言葉を精査しているように感じた。
自分で聴く自分の「声」と他人が聴く自分の「声」の印象は大きく違っている。録音して聴くともなれば、自分自身でたいへん驚くものだ。鏡で自分の顔を見るように、その体験の衝撃は自意識とのぶつかりでもある。思想家として巨大な存在である吉本隆明は、いったい自分の「声」をどのように聴いていたのだろう。