なんにもせん人の話2015.11.13
むかしむかしあるところに、どうしようもない怠け者がすんでいました。畑しごとなどはまったくやらずに、毎日ふらふらとすごしています。怠け者はある日、小さな壷をひろいました。小さな壷には、小さな男が入っていました。怠け者は、壷ごと男をもちかえりました。
次の日も、怠け者はあいかわらず何もせずにふらふらとすごしています。すると、壷の中の男はひとまわり大きくなっていました。
また次の日も、怠け者が同じような一日を終えてかえってみると、男はさらに大きくなっています。ついには、家にいっぱいになるほど、男は大きくなりました。
そんなある日、怠け者は、近所にすむ者に、どうしてもと、畑しごとの手伝いをたのまれます。そして、一日はたらき、お礼までもらった怠け者は、今までにないほのぼのとした気持ちで家にかえります。すると、男は少し小さくなっているようでした。何日のあいだか、怠け者が畑しごとをして過ごすと、男はとうとう、また壷の中に入るほど小さくなってしまいました。
「このままだと消えてしまう。壷の中に戻して、道端に捨ててくれ」。
怠け者は、言われるままに、小さな壷と小さな男を捨てに行きました。
お話は、これでおしまい。山口県の長門地方に残る昔話である。
壷の中の小さな男は、怠け者の観念のメタファーか。一日中、自由気侭な時間を過ごすことで、想像や思考ばかりが、膨張していく。日々、頼まれた手伝いをこなすうちに、観念的な営みは乏しくなり、小さな男のように、今にも消滅してしまいそうになる。
はたまた、壷の中の男が大きくなったように感じるのは錯覚であり、本当は怠け者が小さくなってしまっただけなのか。人の観念の拡張を表現しているかのような出来事は、そっくりそのまま、ただただその者の存在が小さくなることと、しかもそうとは気づかない盲目的な状態の表徴とも読み解ける。
昔話には、「怠け者」がしばしばあらわれる。彼らは、動物や人ならざるものたちの声を聴き、さまざまな出来事に遭遇しながら、わたしたちに教訓をあたえる。ささいなことによく気づき、思考にどっぷりと集中してしまうことで、まわりの人間から「怠け者」と呼ばれていることが多い。
ところで、壷はいったいなんなのか。壷を拾う。捨てる。これを、生き方の選択とまで言うとおおげさだろうか。「怠ける」のか、「はたらく」のか。生き方のわかれ道だ。怠け者は、壷を拾うのもぐうぜん、捨てに行くのも言われるがまま。彼は、ふしぎな巡りあわせに身を任せて、自分でも気づかないうちに、大事な決断をおえたのかもしれない。