今日と今日のあいだ2015.11.24

今日雨   (今日雨ふるか)

   

其自西來雨 (それ西より来たり雨ふるか)

   

其自東来雨 (それ東より来たり雨ふるか)

   

其自北来雨 (それ北より来たり雨ふるか)

   

其自南来雨 (それ南より来たり雨ふるか)

甲骨文字で残る、歌や詩のご先祖様だという。

また次の日も、怠け者が同じような一日を終えてかえってみると、男はさらに大きくなっています。ついには、家にいっぱいになるほど、男は大きくなりました。中国殷の時代にうまれた甲骨文字は、亀の甲羅や動物の骨に占いの結果を刻みつけたものであり、最も古い文字記録とされている。占いの結果は、卜辞(ぼくじ)とよばれる。甲骨文は卜辞を記すために用いられたから、歌や詩といったものが在っても、残されることはなかったのだろう。この詩も、詩として刻まれたのではなく、やはり卜辞のひとつにすぎないといわれる。

だが、三千三百年以上前の人間の言葉にこれほど気持をよせられるのはどうしてか。

「今日は雨がふるのかな」。

人間と空があるかぎり、なくならない問いだ。

「ふるならどこからふるのかな」。

この思考の展開には、人間の好奇心の種を感じる。

「日」や「雨」のように、象形によって文字をうみだした殷の人々。文字と文字がならんだ結果、全景が象るかたちにたいして、感覚をはたらかせないわけはないだろう。

「雨」という文字の横線は天をあらわし、垂直の線や点々は雨粒をあらわす。現在の「雨」という文字五つで、点々が二十。甲骨文字の「雨」は、まだ一文字のなかに点々が三つだったから、全部で十五。二十にしても、十五にしても、決まった文型のくりかえしのなかで、雨粒はぽつぽつとふえていく。

この文字の並びを見ていると、ほんとうに雨がふるかふらないか、そんなことは気にしていないようにも思える。「雨」というかたちをならべて、文字のつらなりに風景を眺めているのかもしれない。

ご先祖様が、詩か否か。わたしにとっては、どちらでもいい。わたしたちの気持には、時ほどの隔たりを感じない。太古の人々も、「今日」という文字を「今日」というかたちで刻んでいる。