暖かい獣2016.04.19
台北郊外を走る平溪線に乗り、観光地として有名な十分瀑布を目指していた。
目的地までは降りる人も乗る人もほとんどいないローカル線の窓から、たびたび見える「月台(ゆえたい)」という文字が気になりだす。プラットフォームを意味する二文字に、魅せられていた。「月台」は、古く宮殿の正殿からせり出すように建てられた長く広い月見をする場所のことで、プラットフォームとは形が似ているためにその名前がつけられたという。
途中、「暖暖」という駅がある。口にすると「ぬあんぬあん」である。なんと、もたついたとろける響きだろう。気候だとか、地形だとか、そういったものがなにかの名前になっているのを目にすると、人間と言葉の原初的なつきあいかたを感じて心が踊る。「ぬあんぬあん」は、こうしてひらがなで表記されれば日本語であるが、もちろん日本語ではないので、異国の響きを持つ。
駅の名前はその場所のタイトルである。ただし、絵や本のタイトルのように物体として独立した存在に冠されるのではなく、本来は境界なく続く地上に、ふと添えられる。誰もいない月台にも、置き忘れられたように佇む言葉があった。 人間の恣意的な創造物として生みだされずとも、現実には詩情が溢れている。詩は「書かれるもの」ではなく「読まれるもの」であるとはまさに、と思った。
夜、台北市内の書店で、「ぬあん」に出会った。詩のようなものがよろよろと活版で印刷されたメッセージカードに、鉛の小さなキューブが添えられている。「暖」という文字の活字だ。ほかにも「詩」や「聚」など、さまざまな文字があった。それぞれのカードには違う詩が印刷されていて、詩句のなかの一文字が鉛の活字として添えられているシリーズだった。
我把你平放在温暖的湖面
(あなたを横たえて暖かい湖の水面へと放つ)
讓風朗誦
(風に詩を読ませよう)
(楊牧「讓風朗誦」)
この夜、「暖」のカードのほかに、一冊だけ詩集を買った。「失語獸」というタイトルの小さい詩集だ。もちろん中国語の詩であって、漢字一文字一文字の意味と、日本人からみたその取り合わせの面白さを愉しむほかなく、読めない。 「獣にも失語症があるのだろうか」
「そもそも言葉を持たないはずの獣にとって、失語とはなんだろう」
「言葉を失うほどの状況で、人は獣になるのかもしれない」
表紙を眺め、とんちんかんな考えが次々浮かぶ。中国語のなかに滞在し、言葉の不自由を感じていたからだろう。乱暴な想像力で言葉を貪る気分になっていたせいか、「失語獸」の三文字に惹かれていた。
(潘家欣『失語獸』)