天書2016.06.27

「天書」という言葉がある。中国語で、神仏の筆先のことをあらわす。日本語では、奈良時代末期に編まれた歴史書を指すが、それとはまた別の意味である。比喩としては、ちんぷんかんぷんな文字や言葉を「天書」と言う。現代の日常会話では、字の荒さや言語の崩れに対してもちいられる言い回しらしいが、ふるくは神仙のごとき人物や行為にむける言葉だった。

漢字の祖先である甲骨文字もまた、古代中国の人々によってうみだされた。牛の骨や亀の甲羅などの裏側に小さなくぼみを彫り、熱した金属の棒をさしこむ。しばらくすると表側にひび割れが生じる。このひび割れを読み、物事を占うのだ。占いたい事柄は、ひび割れをつくりだす前に刻んでおくらしい。さらに、ひび割れから読みとった占いの結果を書きのこす。そして、実際に起きた出来事までが記される。甲骨文字というのは、この時につかわれる文字のことだ。最終的に、ひとつの甲骨の表面に集まった線と文字は、意味の性質が異なる記述なのだ。

またもや勘違いの話になるが、ひび割れを甲骨文字と呼ぶのだと思っていたことがあった。さらに言うと、ひび割れをもとにつくられたのがいわゆるほんとうの甲骨文字であり、のちに漢字になるのだと思っていた。人によらず、偶然によってうみだされたひび割れ、つまり、神さまからの「天書」をもとに漢字が創造されたのだと、思い込んでいた。「天書」の勘違いよりもずいぶん前の話ではある。だが、勝手に想像した歴史に魅せられて、言葉そのものを気に入っているのは同じだ。しかし、今の時代に生きる人間からすれば、当時の人々が記した甲骨文字もまた、「天書」だろう。いくら漢字のもとになっているとはいえ、ほとんどが読めない。ただ、まぎれもなく文字だということはわかる。

思えば人は、読める読めないにかかわらず、なにをもって線の集合を文字だと認識するのか。占いを行う者たちを卜官(ぼくかん)と呼ぶ。ひび割れを“読んでいた”彼らの目は、線になにを見ていたのだろう。自然がつくる線は、自らがあつかう文字に翻訳可能な言葉だったのか。

今、骨を眺めて、思う。ちんぷんかんぷんなもののなかから「天書」を読みとる目をもちたい。正しい判断で文字を刻むための言葉を手に入れたい。