leaf
一年前に台湾を訪れたときのある一日の日記をもとに制作した作品です。
文章や話言葉で表してしまえば、シンプルな時系列のなんてことのない日記のようになってしまう出来事だったのですが、 わたしにとってはもうすこし複雑な出来事だったので、このように形と空間の力を借りて、表したいと思いました。
ひらひらぶら下がっているタグのようなテキストは、台湾から帰ってきてすぐに書いた文章がもとになっています。
では、その一日について話したいと思います。
台湾では、というか「中国語」と言われる言語では、駅のプラットフォームのことを「月の台」と書いて「月台(ゆえたい)」と言うんです。 まず、それにすごく魅了されてしまって、 この日はある有名な滝がある観光地を目指してローカル線に乗っていたのですが、とにかく駅にとまるたびに見える「月台」という文字を見つめていました。
その滝がある観光地までは降りる人も乗る人も全然いないので、本当に、だだっぴろい無機質なホームに「月台」という文字だけが浮かんでいるんです。
車窓からは、グラデーションのように亜熱帯のでっかい葉っぱの植物がどんどん増えてきて、電車の中からですが、なんとなく湿気も増しているような気がしてきて、小さい貯水湖や川など水もどんどん増えてきて、でも、ただ「月台」という文字はいつもある。夜に月がどこからでも見えるような感じで、どこまでいっても、風景が変わっても、「月台ゆえたい」はあるんです。
これは結構じめじめが増してきたな、と思うと、「暖かい」という字が二個で、発音は「ぬあんぬあん」という駅が登場します。この字の意味にたいしてこの音の響き。これもまた、感動してしまいました。気候だとか、地形だとか、そういったものがなにかの名前になっているのを目にすると、人間と言葉の原初的なつきあいかたを感じるような気がします。あとは、この「ぬあんぬあん」という響きにはちょっと色気もあって、亜熱帯のわさわさした葉っぱを背景とした月台で見ると、一層魅力的な言葉でした。
それで、この日は目的地だった滝の周りで観光をしてから、夜には市内を回っていました。そのとき台湾のブックデザインにも興味があったので、小さい本屋さんから大きい本屋さんまで、できるだけ見てみたいと思って歩き回っていました。かなり大型の本屋さんでも、学生からおじさんおばさんまで床に座ったりしながらいろいろなコーナーで本を読んでいて、みんなすごくくつろいでいるんです。たしかに、台湾で売られている本の見た目は、タイトルが刺繍になっていたり、凝った綴じ方がされていたり、見た目的にすごく面白かったですが、そのような本との関わりかたの方が面白いなと思いました。
そして、その本屋さんで、さっきの「ぬあん」を見つけることになるんです。
詩が活版で印刷されたメッセージカードに、鉛の小さなキューブが添えられていたんです。それが、「暖」という文字の活字だったんです。ほかにも文字はあって、それぞれのカードには違う詩が印刷されていて、詩句のなかの一文字が鉛の活字として添えられている商品のシリーズだったんです。本当に少しだけですが、中国語を勉強していたり、もともと漢字の意味はなんとなくわかるということでその「ぬあん」が含まれる詩を一部読んでみると、「あなたを横たえて暖かい湖の水面へと放つ 風に詩を読ませよう」というような意味でした。詩の全体は正確にはよくわからないので単語から推測すると、とりあえず恋愛の詩なのですが、あえての誤読で勝手に読んでみると、この「ぬあん」が登場する場面は、あの滝を目指しながら見た「ぬあんぬあん」という駅があった生あたたかい湿度のある場所で、恋人を湖に水葬する場面なんじゃないかなって想像しました。実際にはありえない、物語のような情景が浮かびました。
「ぬあん」をみつけた後に同じ書店でもう帰ろうという時に、一冊の詩集をみつけたんです。 それがそこに浮かんでいる「失語獣」という詩集なんですけど、ああ、この一日はこれで終わるんだ、って、またここで感動します。なんでこんなわたしの旅の思い出を長々話すかという理由でもあり、この話のまとめにもなるのですが、わたしはこの「失語獣」というタイトルを見ながら、「ぬあん」の詩のときのように勝手に、あえての誤読でイメージします。「獣にも失語症があるのだろうか」とか、「そもそも言葉を持たないはずの獣にとって、失語とはなんだろう」とか、「言葉を失うほどの状況で、人は獣になるのかもしれない」というようなことをこの「失語獣」という言葉から考えました。 わたしにとって、この読めない詩集は、その中身ではなくてタイトルとその出会い方が「詩」として機能したんだなと思いました。
わたしがお話した台湾での一日を振り返ると、その一日もまた、「詩」だったなと思ったんです。「詩的」な一日ではなく、「詩」だったと思うんです。
で、ここで大切だったのは、わたしが風景のなかで言葉をみつけて、しかもその言葉は、漢字ということで読めるけれどもその言語本来の読み方ではなく、誤読をしていたということです。
何年も前に、わたしは「土地した旅」という言い間違いを聞いたことがあり、今でも忘れることのない言い間違いなのですが、これもまたわたしにとってはすごく美しい言葉で、「詩」だと思いました。
詩を仮に、日常とはまったくことなるメカニズムで生まれた言葉と定義すると、このような誤読による言語体験の集積や言い間違いもまた、「詩」といえるとわたしは考えています。
(2017年4月9日、個展「話せることの使命」内でおこなわれたトークイベントでの作品解説)