万物照応

インスタレーション
2014年

人間と人間が言葉をつかいあうことを「会話」と呼ぶ。

「会話」は、話者である「わたし」という存在と共話者である「あなた」という存在によって成立している。 日本語の場合、「わたし」は「おれ」や「ぼく」であったり、同様に、「あなた」は「おまえ」や「きみ」であったりする。 共話者が話者となれば、「わたし」と「あなた」の指示対象は入れ替わる。

わたしたちの「会話」の一瞬一瞬には、相手を察しつつ、相手の考える自分を察する。 そこでは「相手」と「自分」という主体どうしの意識が混りあい、交錯する。異なる主体の思考や感情が呼応する場 それがわたしの考える「会話」であり、オリジナルのテキストを制作した。以下は、「わたし」と「あなた」の交錯を主題としたテキストの全文である。

わたしはあなたの考えていることを感じ、わかる。
あなたはわたしの考えていることを感じ、わかる。

あなたが感じ、わかっているかもしれないし、わかっていないかもしれない
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
というのは、
あなたはわたしの考えていることを感じ、わかる
ということを、
わたしは感じ、わかる
ということであり、
わたしが感じ、わかっていたりわかっていなかったりする
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
というのは、
わたしはあなたの考えていることを感じ、わかる
ということを、
あなたは感じ、わかる
ということだ。

わたしはあなたの考えていることを感じ、わかる
ということを、
あなたは感じ、わかっているかもしれないし、わかっていないかもしれない。

あなたはわたしの考えていることを感じ、わかる
ということを、
わたしは感じ、わかっていたり、わかっていなかったりする。

わたしが感じ、わかっていたり、わかっていなかったりする
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
というのは、
あなたが感じ、わかっているかもしれないし、わかっていないかもしれない
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
であり、
あなたが感じ、わかっているかもしれないし、わかっていないかもしれない
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
というのは、
わたしが感じ、わかっていたり、わかっていなかったりする
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
である。

わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
というのは、
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
である。

あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
というのは、
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
である。

あなたが感じ、わかる
わたしの考えている
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
というのは、
わたしが感じ、わかる
あなたの考えている
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
であり、
わたしが感じ、わかる
あなたの考えている
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
というのは、
あなたが感じ、わかる
わたしの考えている
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
である。

あなたが感じ、わかっているかもしれないし、わかっていないかもしれない
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
というのは、
あなたが感じ、わかる
わたしの考えている
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
であり、
わたしが感じ、わかっていたり、わかっていなかったりする
あなたが感じ、わかる
わたしの考えていること
というのは、
わたしが感じ、わかる
あなたの考えている
わたしが感じ、わかる
あなたの考えていること
である。

このテキストを厚さ5ミリのアクリルの文字に起こした。そして、綿で作られた起伏の上に配置し、箱に収める。箱は、幅90センチ、長さ4メートルの長方形をしている。 表面には、波打たせたプリズムシートを被せる。プリズムシートとは、表面の凹凸によって光の屈折を起こす素材である。シートによって、テキストを構成する言葉が歪み、浮かび、重なる。 このしかけによって、テキスト上で「わたし」や「あなた」といった主格の交錯や重なりが起きる。さらに、わかっているのか感じているのか。または、わかっていないのか感じていないのか。 主体の状態についての記述は、複雑さを増す。

作品は、窓からの自然光が差し込む部屋に設置する。天気や時間によってプリズムシートに当たる光が異なり、文字の見え方や反射光が刻々と変化していく。 テキストの意味の変容には、鑑賞する個人の解釈だけではなく、外的な現象が介入する。観る主体にとって客体である作品が、ただ観られるだけの客体には終わらない。 むしろ観る主体にたいしてはたらきかけてくる客体として存在する。この現象を立ち上がらせる場を創りだすことで、「会話」における主体と客体それぞれが変化し続ける状態を表そうとした。

19世紀フランス象徴派の詩人ステファヌ・マラルメは、作品『骰子一擲』において、言葉の生成過程そのものを詩の表現とした 星座と形容されるその言葉の配列は、文法的順序を保ちつつも、線的にのみならず面的にも繋がり、近く遠く無限の関わりを持つ。ページを1ページづつ読むのではなく、見開いた状態を眺めなければ、 その詩句を受けとることはできない。本作『万物照応』では、マラルメの「視覚詩」の概念を参照しながら、素材と現象を用いて、 平面的な言葉の配置だけでない空間的な言葉の配置を表現に活かそうと試みた。一つの思考や情緒が線的に展開するのではなく、いくつかの思考が同時に展開されるという点で、 わたしが試みようとした複数の主体の複数の思考による「会話」の在り方を扱うにはふさわしい概念であると考えたからだ。

また、マラルメは「偶然性」を、積極的に詩に取り入れようとした。人間の恣意だけに依らない言葉に詩性を感じ、自分自身の表現においても、 そのような言葉の生成する場を作り出すことが目的であるわたしにとっては、とても興味深く、強い影響を受けた。

また、本作品タイトルである「万物照応」は、マラルメに決定的な影響を与えたシャルル・ボードレールの詩の題名「correspondances(万物照応)」をもとにした。 詩集『惡の華』に収められたこの詩は、自然と人間との共感、視覚や臭覚といった人間の感覚器官の相互作用、理性と感性との交わりを表す。 マラルメに潮流をなす、象徴主義の理論そのものとされている。だが、人間と自然、感覚と感覚、理性と感性、これらはみな、そもそもが、言語によって知覚、認識されている概念であると考えれば、 万物の照応というのも結局は言葉と言葉の呼応であると、わたしは考えた。

作品を作り終えて、考えたことがある。「会話」のなかにあらわれる「わたし」や「あなた」という言葉のうえでの主体の存在。それらにたいして抱く、自分自身のこだわりや関心。 この心理は他人と共有できる普遍性をもつのか。

主体は、それぞれ自らの内で言葉を呼応させる。そのうえで、主体間においての言葉の呼応がうまれる。そして、それは再び、個々の内なる呼応を引き起こす。 「会話」のなかで起こる言葉の反射や影響の連鎖は、状況を複雑にしていく。

わたしは、「会話」が複雑な構造を持つにつれ、互いの言葉の区別が薄れていくような感覚におちいる。自分は会話という現象の一部であり、その渦中においては、 言葉が飛び交う空間の反射板にすぎないと思えてくる。同時に、相手の対象化が停止し、合一するような快感を感じる。

わたしのみならず、人間は、身体として、生物として、生存欲求を持つ。同じように、「会話」をしている人間は、発話行為のなかに「わたし」という人称代名詞を存在させることで、 意識としての生存欲求を満たしているのではないか。発話行為における「わたし」の使用は、本能的な欲求に依るのだと考えた。

人の会話、会話の進行と関係の変化にともなう個人個人の感情や思考の展開は、「情緒」によって成り立っている。「情緒」とは、人には解析しきれない厳密な辻褄と秩序である。 身体器官としてもまた、人はひとつの秩序そのものともいえるが、人がもつ言葉にもメカニズムが存在する。

また、そもそも人は自身の言葉の主体でありえるのだろうか。言葉が生まれるためには、主体にとっての客体という、自分以外のすべての現実から影響を及ぼされていなければならない。 「会話」という場では、主体は言葉の所有者ではなく、秩序を構成する一つの装置にすぎないのではないか。言葉を生み出す可能性を持った装置、すなわち人間が、複数関わり合うとき、 言葉は言葉を導き、関わり合いを変化させつつ、その変化もまた新たな言葉の導き合いを生むのだ。これこそ、わたしが考える「万物照応」であった。

学部卒業制作『万物照応』では、「わたし」や「あなた」という言葉のうえでの概念にこだわりをもつことは、意識としての生存欲求による本能であるという考えにいたった。 その一方、「会話」という言葉が行き交う現象のなかでは、主体は言葉の反射板にすぎないという考えをもつことにもなった。「わたし」や「あなた」という概念のなかで、 自らを生存させようとしながらも、言葉の反射のなかに自らを消滅させていくような快楽を求めてしまう。発語しつつ、音声言語として消滅することを一方で願っている。 「会話」という現象のなかでのわたしたち人間は、無意識のうちにそんな行為を行っているのだろう。